
Artist Talk: Arishima Msueum
Shimizu Toshio (Art Critic) × Date Motoshige × Season Lao
Date : 2026.2.14
伊達 元成, 清水 敏男, Season Lao
Kiyoe Gallery Arishima
Niseko, Hokkaido, Japan
内在する風景――風土と神性の間
伊達 元成 (だて歴史文化ミュージアム元学芸員、亘理伊達家の第20代当主)
Season Laoの作品に現れる伊達市の風景は、単なる地理的記録ではない。そこには、土地に蓄積された時間と、人々の生活の痕跡が静かに重なっている。
北海道伊達市は、歴史と農漁業の営みによって形成された土地である。同時に、中世以来800年以上にわたり続く伊達氏の系譜を有し、その武家文化の記憶がこの地の風景に時間の厚みを与えている。
自然と人為、歴史と現在が幾層にも重なり合うこの地域において、
約150年前、私の先祖である亘理伊達家がこの地の開拓を始め、その名が「伊達」という地名として現在に刻まれている。風景は単なる自然景観ではない。それは、生活の持続によって意味を帯びた場である。
ラオの作品が喚起するのは、懐かしさという感情にとどまらずに、「季節の移ろい」や「荘厳な気象の変化」を通して立ち現れる感覚である。山、樹木、水の流れ、そこに棲む動物、そしてそれらに支えられる人間の生活。その全体が分断されることなく、一つの関係性として示されている。

興味深いのは、神性の感覚が壮大な自然そのものから直接生まれるわけではない、という点である。神性とは、自然と人間の営みが時間の中で接触し、その関係が持続するときに立ち現れる感覚として理解できるのではないだろうか。
私は2021年から2023年にかけて、南極観測隊員として昭和基地で生活した。二酸化炭素や放射性物質の研究に携わり、地球温暖化に関わる諸現象の観測を行ってきた。基地は他国の拠点から遠く離れ、半径1000キロ圏内に日本隊以外の人間はいない。空気中のダストや水蒸気が極めて少なく、60キロメートル離れた山の地層が視認できるほどの透明な大気に包まれている。
しかし、南極のように人間の継続的な生活が存在しない場所では、いかに雄大な自然であっても、風土は成立しにくい。自然と人間とのあいだに時間をかけた関係が蓄積されない限り、神の気配が自ずと立ち現れるとは言い難い。欠けているのは自然の規模ではなく、「関係の時間」である。

ラオの写真作品を前にするとき、私は単にその景色を知っているという感覚を超え、どこか神性を帯びた深い感応と、この地域で生活する人々の営みの重なりを感じ取る。作品と鑑賞者の感情の「あいだ」に立ち現れるもの。それは、循環する地球の季節変化と、人間の生活時間とが交差する瞬間である。
この感覚は、日本に根付くアニミズム的自然観とも響き合う。物や土地に霊性を見出す感受性は、自然への敬意と畏れを育みながら、時間の中で自然との関係を持続させてきた生活の倫理でもある。そのような倫理の層が、ラオの作品の背景にも静かに通底しているように思われる。
「間」という主題は、単なる空間的空白ではなく、時間構造としても読み取ることができる。神道における「中今」は、過去と未来を接続する現在であり、時間が受け渡される結節点である。
写真は一瞬を固定する。しかしラオの作品においてその固定は時間を停止させるのではなく、むしろ「中今」という時間の流れを意識化させる契機となっている。鑑賞とは、風景を見ることにとどまらない。自らの内に生まれる感情と、その背後に持続する時間を観測する行為でもある。

清水 敏男 (美術評論家、アーティスティック・ディレクター)
Season Laoのインスタレーションは、空間そのものを静かに変容させる。雪景色を背後に抱えた展示空間の内部で、鑑賞者は床に座り、作品と同じ高さに身を置く。そのとき、作品は単なる視覚対象ではなく、身体を包み込む環境へと転化する。
この体験は、「間(Ma)」という概念を再考させる。
1978年、建築家の磯崎新はパリにおいて『MA: Space-Time in Japan』展を開催した。そこでは「間」は主として建築的・物理的空間として提示された。作品と作品のあいだ、構造物と構造物のあいだに生じる実体的な空白である。
しかし、「間」は単なる物理的空間概念に還元できるものではない。空間が可視的であるのに対し、時間は不可視である。にもかかわらず、私たちは時間を確かに経験している。

1998年、上海で開催された日本現代美術展の企画に際し、「間」を時間概念として提示する可能性が模索された。そのとき、日本文化における二つの時間意識が浮かび上がる。
一つは禅的時間である。現実を超越し、時間を断ち切る方向性を持つ。もう一つは、浄土真宗に代表される反復の時間である。日々「南無阿弥陀仏」と唱える行為の積層が、時間を連続的経験として形成する。
この二重性は、日本美術にも見られる。超越的時間を体現するのが杉本博司であり、反復の時間を可視化するのが荒木経惟である。Season Laoの作品においても、時間は直接的に表象されるのではなく、運動や揺らぎを通じて暗示される。風景やオブジェは目に見える。しかしその奥に、不可視の層が存在する。そこに現れるのが、物理的空間を超えた「間」である。

もう一つ重要なのは「気(Qi)」の感覚である。
東アジアの山水画では、山は単なる風景ではない。山は「気」を発する存在であり、その絵を室内に置くことで、山のエネルギーが空間を満たすと考えられてきた。鑑賞とは、対象を外側から眺める行為ではなく、気の循環の中に身を置くことである。
西洋的な美術観においては、作品は鑑賞者から切り離された視覚対象として位置づけられてきた。一方で東アジアの美術においては、両者が精神的次元において同一の場を共有する関係が見出される。
Season Laoのインスタレーションもまた、そのような構造を持つ。鑑賞者は作品を「見る」のではなく、作品の内部に入る。作品に包まれ、時間と気の流れのなかに置かれる。
この感覚は、東アジアに強く根付くアニミズム的自然観とも通底する。自然は人間に敵対する絶対的存在ではなく、恵みをもたらす循環の場である。水、光、四季の変化のなかで、人と自然は接続されている。
そのため芸術作品もまた、私たちの外部にある客体ではなく、共有される環境となる。
音楽における「音と音のあいだ」も同様である。音そのものではなく、その間隙が経験を成立させる。近代西洋音楽では演奏者と聴衆の役割分化が明確に構造化されてきたが、日本では、聴き手が音の内部に身を置くような知覚経験のあり方が指摘されている。
「間」は、単なる空白として理解されるものではない。
「気」もまた、象徴的な概念にとどまるものではない。
それらは、私たちが常に何かの内側にいるという感覚の表現である。
Season Laoの作品は、鑑賞者をその「内側」へと導く。私たちは作品の外に立つのではなく、時間と空間とエネルギーが交差する場の内部に、すでに置かれているのである。

rondins, logs, video Creative Center Ōsaka – Heritage of Industrial Modernisation | 近代化産業遺産 2023 おおさか創造千島財団 コレクション
伊達 元成
北海道伊達市を築いた亘理(わたり)伊達家の第20代当主。 伊達政宗の重臣・伊達成実を祖とする家系に生まれ、大学 在学中に家督を継承する。だて歴史文化ミュージアムの 学芸員を経て、第62次南極地域観測隊(2020‒2022年) では越冬隊員として気水圏変動モニタリングを担当。現在、 北海道伊達市在住。
清水 敏男
TOSHIO SHIMIZU ART OFFICE 代表 アーティスティック・ディレクター 美術評論家 フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受勲 学習院女子大学名誉教授
- Artist’s Note
制作の原点は、2009年に北海道伊達市で体験した吹雪にある。
当時、私は二ヶ月間のインターンシップで初めて北海道・伊達市を訪れていた。言葉も分からないまま滞在していたある日、二十年ぶりの吹雪に遭遇した。視界は閉ざされ、恐怖と同時に安心感や懐かしさを覚えた。そのとき体験したのは、欠如ではなく、すべてが均質に包み込まれるような「自然余白」の感覚だった。
この経験は後に作品として結実した。霧や雪が立ち現れる瞬間の感覚は、理論に先立つ身体的な体験であり、制作の縁起となっている。
本展において、インスタレーションも、何かを表象するのではなく、有島記念館という場の条件のなかで、そこに立ち現れる状態を受け入れている。作品は、場所や環境との関係によって変化していく。
伊達市での経験は、制作の基層となっている。
Hookaido Projects

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