Review from Saeki Tsuyoshi (風の旅人)

”しじま(静寂)”の芸術ー劉善恆の写真表現
風の旅人 編集長 佐伯剛

  • ”しじま(静寂)”の芸術ー劉善恆の写真表現
    風の旅人 編集長 佐伯剛
     

    いにしへの昔から、東洋においては、”しじま(静寂)”の芸術表現が深められていた。水墨画や俳句、そして楽曲においても、 余韻の 消え去 ったあとの ”しじま(静寂)”に 音楽的な意味を見出す曲作りがなされていた。

    近代化の過程で西欧文明を摂取し続けるうちに、日本社会は物や情報が溢れかえって賑やかになり、テレビ番組などにおいても、わずか数秒でも沈黙が訪れることは、白けた雰囲気であるとネガティブにとらえられ、常に意味のない笑い声が挟み込まれる。

    沈黙や静けさを避けようとする気持ちは、もしかしたら、自分自身の現実に向き合うことから逃れたい心境の反映なのかもしれない。

    しかし、そうしていながらも心の中に降り積もっていく世の中の汚れや穢れは、次第に心を圧迫し、様々なしがらみから自分を解き放して浄めたいという衝動も大きくなる。そんな時、人は、なぜか北の大地の真っ白な雪原に憧れ、旅に出ることがある。こうした心理は、どんなに文明化が進んでも変わらずに人間に備わっているものなのだろう。

    劉善恆の写真表現は、北の国の単なる雪景色をカメラで写し取っているのではない。彼が創造した真っ白な時空の中は、あらゆる分別の濁りが掻き消えていくような、しんとした静けさに満たされている。

    通りすがりの風景にカメラを向けるのではなく、自分の表現のために北海道に移り住み、求道的な姿勢で、ひたすら雪景色を撮り続けている彼は、近代文明の様々な現象に対して、もしかしたら批判的な考えを持っているかもしれない。しかし、そうした考えを説明的に訴えることは善悪二元論の対立概念の土俵に乗るだけであり、それがエスカレートすると、過激な原理主義による敵対行為となってしまう。

    表現を行うにあたって、劉善恆の目は、外に向けられているのではなく、心の内側に向けられている。外の変化が未来につながっているのではなく、一人ひとりの心の内側に宿る芽が、未来を育んでいくことを彼は知っている。だからこそ、彼の雪原風景は、地上のどこかに客観的に存在しているものだとしても、場所や時間の説明は不要で、誰もが心の内で共有している特別の何かであると感じられるのだ。このことは、優れた芸術表現においては当たり前のことで、かつ大事なことであるが、写真で表現される風景において、この感覚が実現されているものは、意外と多くはない。

    写真は、その技術の発明の時から、珍しいものを伝えるうえで大きな力を発揮してきた。そして、普遍性よりも特定化を重視する物の記録において、写真に勝るものはなかった。だから、写真を表現手段として用いる場合、そうした写真の強みをより発揮させる方向で行われた。

    特定化できる珍しいものを伝えるという写真の力がもっとも発揮されるものは、宣伝広告であり、だから、写真は、消費社会の発展の立役者となった。

    結果として、写真表現者の成功者の多くが広告写真においても重宝されることは、消費社会の必然だった。

    そのようにして見栄えが良く宣伝効果の高い情報写真の氾濫によって、人間は、得体のしれない不安を膨らませていくことになる。その不安は、理由の定かでない喪失感、焦燥感、孤立感などが混ざり合ったものだが、その根本的な原因は、自分の生が根ざしている現場と、伝えられる情報のギャップにあるだろう。消費社会というのは、そのギャップを人々に感じさせ、そのギャップに対する不安や焦りを利用して利益を得るという打算によって構築されている。そのギャップを、夢という言葉でカムフラージュしながら。

    だから、この時代にカメラマンとして成功しようと思うならば、消費社会の先導者になる道を選んだ方が早い。

    劉善恆の写真を初めて見た時から、この若者は、カメラをそうした処世的な手段として使うことに対して抵抗感をもっているらしいということはよくわかった。

    彼は、カメラという近代的な道具を使っているが、その目は、俳人や南画の画家たちのように、どんなに時代の姿が変わろうとも変わることのない普遍に向けられていると感じられた。そして、過去に敬意を抱きながら、骨董趣味に陥るのではなく、現代から未来への架け橋になるようなエッセンスを抽出することを心がけること、そうした彼の思いは、彼にとって異国の地の雪景色と出会うことで具現化した。

    劉善恆の作り出す世界は、見知らぬ場所なのに懐かしく、誰もいないのに不安でなく、何もないのに満たされている。その”しじま(静寂)”の空間は、テレビ空間の沈黙のような白けた殺伐ではなく、耳を澄ませれば、風の音とともに、過去から未来へと伝わっていく生類たちの様々な息遣いが滲み出てくるような情感豊かなものとなっている。その瞬間は、今ここではないどこかへと通じる一刻であり、過去も現在も未来も、白い風景の中で境界がなくなる。

    人は誰でも、いつか必ず死んで身体は消えていくことになるけれど、その人が生きていた時の息遣いは、その人が関わった様々なものに気配として残っている。

    人間に限らず、気配こそは、目に見える形よりも、その物の本質を伝えてくる。

    劉善恆が写真で表しているものは、まさにその生の気配であり、生の気配を通じて、人は多くのものとつながり、決して孤絶していないということが実感できる。

    寂しさのあまり、しじま(静寂)を忌避し、遠ざけてしまうと、そうした気配への親近感すらなくなってしまい、結果として、得体の知らない不安を増大させることになる。

    ”しじま(静寂)”の芸術は、しじま(静寂)の懐に抱かれることが孤独をつのらせるのではなく、むしろ逆に、我々の現実を超える大きなものとつながって存在の不安にさらされずにすむということを教えてくれる。劉善恆は、そうしたビジョンを具現化している数少ない写真表現者の一人である。

  • “寂静”的藝術 - 劉善恆的攝影表現
    風之旅人 總編輯 佐伯剛

    在昔日的東亞地區,寂靜藝術的表現已被深化。在水墨畫或俳句以及樂曲中,以余韻消失後的“寂静”去讓人感受音樂的意境。

    在現代化的過程中,日本社會在不斷攝取的西方文明下,出現物質與信息的泛濫。在電視節目中,盡管只是幾秒鐘的沉默時間,就會被視為負面與掃興的氣氛,總要加插無意義的笑聲。

    避免寂静與寧靜的情緒或許是一種希望擺脫面對現實心境的自我反映。

    然而,在心中所積累的世間污穢逐漸對心靈形成壓迫,希望從各種束縛中被解放與淨化的想法也隨之增加。在這種情況下,人們不知何故對北方大地的白雪皚皚的積雪產生憧憬而展開旅程。這種心理,無論人類文明如何進展也保持不變吧。

    劉善恆的攝影表現,並非單純以照相機拍攝北國的雪景。他所創造出的純白時空中,各種渾濁都被抹去,充滿著寂靜的氣息。

    他沒有把鏡頭對準路過的風景,而是為了自己作品的表達而移居北海道,持續以求道的精神專注對雪景的拍攝,也許是他對現代文明的各種現象保持著批判的思考態度。但是,若對這種思考進行解釋的話便等同於只是敲響善惡二元論的對立概念問題,當它升級的時候,便會變為對原理主義敵對的極端行為。

    在表達的手法中,劉善恆,並沒有受到外界的影嚮,他把視野面向內心。他知道外在的變化並不會連接到未來,去培育未來的是每個人內心存在的嫩芽。這就是為甚麼在他的雪原風景裹,即使在地面某處存在著客觀的東西,却沒有必要對地點與時間進行解釋,面對作品每個人也能感受到自己內心深處有共嗚的東西被喚起來。對於優秀的藝術表現來說這是一件平常而重要的事情,但在以攝影表現的風景中,能去把這種感覺實現出來的作品,却意外地很少。

    從攝影技術被發明開始,照片就在傳遞罕見事物中發揮著巨大作用。而且,對於特定被重視而非普遍性存在事物的記錄,沒有媒介能勝於照片。因此,把攝影運用在作品的表現手法,是讓攝影藝術能加更得以發揮其優勢方向。

    在發揮攝影對於罕見事物進行特定化傳達的力量中,最為顯著的就是廣告。因此,攝影向是消費社會發展的領軍角色。

    結果,攝影表現者當中,許多成功人物也必然是因為消費社會而備受尊敬。

    由於這種外觀好,宣傳效果高的信息照片氾濫,人類會莫名其妙地感覺到膨脹起來不安。這種不安,是由理由不明確的喪失感、焦燥感、孤立感等混合而成。而根本原因在於,被傳達的信息與自己生長的地方所存在的落差吧。消費社會的構造是使人們感受到落差,從而利用人們因為落差所產生的不安與焦慮感而從中獲取利潤,以夢想的說法去掩飾落差。

    所以,如果你想在這個時代以攝影師取得成功,成為消費社會的先導者的方式會是更快的選擇。

    初次看到劉善恆的作品時,我清楚意識到這個年輕人似乎對照相機被處世手段所使用的情況感到反感。他以照相機作為當代藝術工具的目光,好比俳句詩人和南畫的畫家,無論在哪個時代姿態如何變化也能感受到其普遍不變的視野。然後,他對過去擁抱致敬的同時, 却沒有陷入表面古董趣味,而是把這種想法化為當下連接未來的渡橋,從中抽出養份並銘記於心。這樣的思考方式,讓他把在異國之地的所遇到雪景以作品體現出來。

    劉善恆所創造的世界雖然是陌生的地方,沒有任何人存在却並不會感到不安,雖然甚麼也沒有但心靈却得到滿足。那個靜寂空間,不是電視媒體世界般要把掃興空白抹殺的沉默。如果你細心傾聽,會聽到風聲、與各種生物從過去傳達至未來的情感豐富的氣息。那一刻,就是忘却當下與某個地方相連的一瞬間,過去、現在、未來的界限從白色風景中消失。

    人總有一死,身體會消失,但那個人活著時的氣息會遺留下來,象徵著這個人所參與的各種事情。

    不限於人類、比起肉眼能看到的形態,氣息傳達的是生物的本質。

    劉善恆的攝影中所表達的正是生命的氣息、通過生命的氣息、人與眾多事物聯繫在一起,意識到他們從未被孤立過。

    如果你回避、疏遠寂寞和静寂,那樣會使你失去氣息的親和力,結果,導致不知理由的不安感增大。

    静寂的藝術是,把它擁抱在懷中而不是加劇孤獨,與此相反,它告訴我們不必暴露出面對超越我們現實的大型事物所聯繫的存在不安。劉善恆,是擁有這樣的視野去把這種願景實現出來的極少數攝影藝術家之一。

  • The Art of "Silence" Expression of Season Lao 's Photography
    Tsuyoshi Saeki Editor-in-chief of "Kaze no tabibito"

    From ancient times, the concept of Silence has played an important role in the East. To find the musical significance of the Silence after the trailing note has faded out, was an important part of composing Ink Wash Paintings, Haikus or music. Heavily influenced by Western society while in the process of modernization, Japan became overflown with new objects and information. Take for example television programs: Silence is only allowed for a few seconds and even then it is experienced as a mood turned sour, as something to be filled with meaningless and uncomfortable laughter.

    The tendency to avoid the Silence may be a reflection of people’s inability to come to terms with reality. However, even so, the world’s dirt and corruption that have accumulated inside the heart become gradually too much to bear, and the urge to break free from one’s bonds and purify oneself grows stronger. When this happens, humans unknowingly start yearning for the pure white snowy fields of the North and some choose to set out on a journey. It is part of human nature; it is a yearning that will remain no matter how far civilization progresses.

    Season Lao’s photographs do not merely capture the snowscape of the North; the pure white space-time of his creation overflows with quiet tranquility that offers a break from the muddiness of daily life. Instead of simply turning his camera to the passing landscape, he moved to Hokkaido in order to express his own vision. It may be evident from the spiritual attitude with which he intently captures the snowscape that he has a critical mind, one that holds critical insights for many of modern society’s phenomena. However, these insights, when expressed in an explanatory manner, will only remind of the dualism of good and evil, and when pushed too far, will merely be mistaken as an act of hostile fundamentalism.
    In his works, Season Lao directs his eye not to the outside, but to what is inside the heart. He knows that external change is no indication of what the future holds; rather, it is the seed inside each person’s mind that will nurture days to come. While his snowscapes objectively speaking are located somewhere in time and space, they need no explaining; their significance can be felt by anyone. This is something that all great art shares, and though it is a quality often lacking in photography, it is of great importance.

    From the time of its invention, photography has demonstrated great potential for showing the extraordinary and otherworldly. Photography’s strength lies not in capturing the universal, but rather the specific as its subject. One place were photography can showcase its power is in advertisements, and it has played a significant role in the development of consumer society. Inevitably, in such a society, many skilled photographers also sought their success in this business.

    The flood of commercialized, high-impact pictures that followed led to an unparalleled increase of anxiety. This anxiety’s, which is a mixture of uncertainty, impatience, isolation, true root lies in the discrepancy between reality and expectation. Consumer society rests upon this gap, and profits from the anxiety and impatience felt from it; a gap which is marketed and masked by the word “dream”. Unsurprisingly, if one wants to make it as a photographer, the easier path is to serve consumer society.
    When I looked at Season Lao’s artworks for the first time, I felt the young man’s resistance to this trend. While he uses the modern tools like the camera, his eyes, like those of Haiku poets and Nanga artists, are aimed at universality; that which remains unchanged through the test of time.

    Furthermore, he deals with the past without promoting antiquarianism; from his snowy landscapes, he extracts the essence that bridges the present and past. The world created by Season Lao is an unknown, yet nostalgic world; although there is no one and nothing in it, it does not cause anxiety, but instead gratifies. This Silence is not the same as the Silence of the television. It is pregnant with emotion; if you pay attention, the sound of the wind, of living creatures breathing, all sounds being handed down from the past to the future can be heard.

    Everyone and everybody dies. However, during life the breath of any human leaves a lasting mark on the world they interact with. This mark, this energy, which is not restricted to just human beings, convey not the form that is visible to the eye, but rather the essence of the thing. What characterizes Season Lao’s works is exactly this energy; through it people are connected to many things in life, and no one is ever truly isolated.

    If you are never lonely, if you avoid Silence and keep it at a distance, you will not get a feel for this energy, and the anxiety that this detachment causes will only grow. The Art of Silence; embracing Silence will not make loneliness grow more violent and become unbearable. On the contrary: it ties us to things bigger than ourselves and ensures that we do not become victims to the anxiety of reality. Season Lao is one of the few photographers who can be said to embody such a vision.

  • “정숙”의 예술-시즌 라오의 사진표현
    바람의 여행자(風の旅人) 편집장 사에키 츠요시(佐伯剛)

     먼 옛날부터 동양에서는 “정숙”의 예술표현이 깊게 나타난다. 수묵화나 하이쿠(시조), 악곡에 있어서도 여운이 가신 후의 “정숙”에 음악적인 의미를 나타내는 작곡을 하였다.
     근대화의 과도에서 서구문명을 계속해서 섭취하는 중에 일본사회는 물건이나 정보가 넘쳐흘러 번잡해졌고, 텔레비전 방송에서 조차 단 몇 초의 침묵이 흐르면 어색한 분위기라면서 부정적으로 받아들여져서 침묵을 헛웃음만으로 가득 채우게 된다.

     침묵이나 조용함을 피하고자 하는 것은 어쩌면 자신이 처한 현실을 마주하는 것에서 도망치고 싶은 심경을 반영하는 것일지도 모른다.
     그러나 그렇다고 해서 마음 속에 쌓여가는 세상의 더러움이나 추악함은 차차 마음을 압박하여 여러가지 속박으로 부터 자신을 해방하여 정화하고 싶다는 행동 역시 커자게 된다. 그 때에 사람은 어째서인지 북쪽의 대지의 새하얀 설경을 동경하여 여행을 떠나게 되는 경우가 있다. 이러한 심리는 아무리 문명화가 진행된다 해도 변함없이 인간이 갖추고 있는 것일 것이다.
     시즌 라오의 사진표현은 북쪽의 단순히 설경을 카메라에 담고있는 것이 아니다. 그가 창조한 새하얀 시공에는 흔히 말하는 분별의 번뇌가 사라지는 것 같은 고요함으로 가득해진다.
     지나가는 풍경에 카메라를 향하는 것만이 아닌 자신의 표현을 위해 홋카이도로 이주하여 도를 추구하듯 오직 설경만을 찍는 그의 모습은, 근대문명의 여러 현상에 대해 비판적인 생각을 가지고 있는 것일지도 모른다. 그러나 그런 생각을 설명하듯이 호소하는 것은 선악이원론의 대립개념의 씨름판에 오르는 것일 뿐아니라 확대해서 보게 되면 과격한 원리주의에 의한 적대행위가 되어버린다.

     표현을 하는 데 있어서 시즌 라오의 눈은 밖이 아닌 마음 속을 향하고 있다. 그는 외부의 변화가 미래와 연결되는 것이 아닌, 한 사람 한 사람의 마음 속에 있는 아름다움이 미래를 키워간다는 것을 알고 있다. 그렇기에 더욱 그의 설경은 지상 어딘가에 객관적으로 존재하는 것이라 하더라도 장소나 시간의 설명이 필요하지 않고, 누구라도 마음 속에 공유하는 특별한 무언가라고 느껴진다. 이것은 뛰어난 예술표현에 있어서 당연하면서도 중요한 것이기도 하지만, 사진으로 표현되는 풍경에 있어서 이 감각이 실현되는 것은 의외로 많지 않다.
     사진은 그 기술이 발명된 때로부터 진귀한 것을 전하는 등 큰 힘을 발휘해 왔다. 그리고 보편성 보다는 특정화를 중시하는 것을 기록하는 데에 있어서 사진만큼 좋은 것이 없었다. 그렇기 때문에 사진을 표현수단으로 쓰는 경우, 이러한 사진의 강점을 더욱 발휘하는 쪽으로 이용되고 있었다.
     특정화가 가능한 진귀한 것을 전하는 사진의 힘이 더욱 발휘되는 것은 선전광고다. 그래서 사진은 소비사회의 발전에 큰 공을 세우게 되었다.
     결과적으로 사진을 표현하는 사람들 중 성공한 사람의 대부분이 광고사진에 있어서도 우대받는 것은 소비사회의 필연이었다.
     그렇게 하여 사람은 보기 좋고 선전효과가 높은 정보사진의 범람에 의해 정체를 알 수 없는 불안에 휩싸이게 되었다. 그 불안은 이유 모를 상실감, 초조함, 고립감 등이 섞인 것인데, 근본적인 원인은 자신의 인생이 뿌리박혀 있는 곳과 들어오는 정보의 차이에 있을 것이다. 소비사회라는 것은 그 차이를 느끼게 하여 그 차이에 대한 불언이나 초조함을 이용해서 이익을 얻는 타산에 의해 구축되어 있다. 그 차이를 꿈이라는 단어로 포장하면서.
     그렇기 때문에 이 시대에 카메라맨으로 성공하고자 한다면, 소비사회의 선도자가 되는 길을 선택하는 것이 빠르다.
     시즌 라오의 사진을 처음 봤을 때부터 이 젊은이는 카메라를 그러한 처세적인 수단으로 사용하는 것에 대해 저항감을 가지고 있는 것 같다는 것은 잘 알 수 있었다.
     그는 카매라라는 근대적인 도구를 사용하지만, 그 눈은 옛날 시인이나 화가들처럼 아무리 시대가 모습을 바꾸더라도 바뀌지않는 보편적인 시각으로 바라보고 있다고 느껴진다. 그리고 과거에 경의를 안으며 골동품 수집에 빠지는 것이 아닌 현대부터 미래까지의 징검다리가 되는 에센스를 추출하는 것에 유의하는 것, 그러한 그의 생각은 이국의 땅의 설경과 조우하는 것으로 구현화되었다.

     시즌 라오가 만드는 세계는 모르는 곳인데 그립고, 아무도 없는데 불안하지 않고, 아무것도 없는데 가득 채워져 있다. 그 “정숙”의 공간은 텔래비전 공간의 침묵처럼 분위기가 깨진 살벌함이 아닌 귀를 기울이면 바람의 소리와 함께 과거부터 미래로 전해지는 생물의 다양한 숨결이 배어나오는 것 같은 정감 가득한 것으로 되어있다. 그 순간은 지금 여기가 아닌 어딘가에 통하는 짧은 시간이며, 과거도 현재도 미래도 하얀 풍경 속에서 경계가 사라진다.
     사람은 누구나 반드시 죽고 신체는 사라지지만, 그 사람이 살아간 시간의 숨결은 그 사람과 관계된 여러 곳에 흔적을 남긴다.
     그 흔적은 사람 뿐만이 아니라 눈에 보이는 형태보다 그 본질을 잘 전달한다.
     시즌 라오가 사진으로 표현하는 것은 살이있는 숨결이며 바로 그 숨결을 통해 사람은 많은 것과 연결되어 결코 외롭지 않다는 것을 실감한다.
     외로운 나머지 정숙을 피하고 멀리해버리면 그런 숨결에 대한 친근감 마저 없어져버리고 말아 결국에는 알 수 없는 불안을 증폭시키게 된다.
     “정숙”의 예술은 정숙의 품에 안기는 것이 고독을 쌓는 것이 아니라 반대로 우리의 현실을 넘는 거대한 무언가와 연결되어 존재의 불안레 휩쓸리지 않고 사는 것을 알려준다. 시즌 라오는 그러한 비전을 구현화하는 얼마 없는 사진구현자 중 한 사람이다.

  • A arte do "silêncio” na fotografia de Season Lao
    Tsuyoshi Saeki Chefe de redacção de "Kaze no tabibito"

    Desde tempos imemoriais, que o conceito de silêncio desempenhou um papel importante no Oriente. Encontrar o significado musical do Silêncio depois da nota final cessar de soar, integrou de uma forma determinante a composição de pinturas de aguada, de haiku ou de música.

    Fortemente influenciado pela sociedade ocidental durante a sua fase de modernização, o Japão foi inundado por novos conceitos e informação. Tome-se, como exemplo, os programas de televisão em que o silêncio só é permitido por alguns segundos e, mesmo assim, é sentido como algo incómodo, como um hiato, a ser preenchido por uma gargalhada sem função e sentido.

    A tendência para evitar o Silêncio pode ser um reflexo da incapacidade das pessoas em lidar com a realidade.

    No entanto, mesmo assim, a podridão e a corrupção do mundo acumuladas dentro do coração humano tornaram-se um peso e o impulso para nos libertarmos de amarras e a necessidade de purificação tornam-se cada vez mais fortes. Quando tal acontece, os humanos, sem o saberem, começam a ansiar pelos campos de neve branca e pura do norte e alguns optam por partir em viagem. Faz parte da natureza humana; é um anseio que permanecerá, não importa quão longe a civilização evolua.

    As fotografias de Season Lao não captam apenas as paisagens de neve do norte; o espaço-tempo branco e puro da sua criação transborda de tranquilidade, e oferece uma pausa para o repetir do dia a dia.

    Em vez de fotografar simplesmente a paisagem que se lhe oferece, o artista mudou-se para Hokkaido para expressar a sua própria visão. É evidente, a partir da atitude espiritual com a qual capta atentamente a paisagem de neve, que Season tem uma mente crítica, e que tem opinião informada sobre muitos dos fenómenos da sociedade moderna. No entanto, essa clarividência, quando manifestada de maneira explanatória, apenas lembra a dicotomia do bem e do mal e, se levada ao extremo, poderá ser confundida com um acto hostil de fundamentalismo.

    Nas suas obras, Season Lao aponta os seus olhos não para o exterior, mas para o que está dentro do seu coração. Ele sabe que as mudanças externas não indicam o devir; pelo contrário, é a semente dentro da mente de cada pessoa que nutrirá o futuro. Embora as suas paisagens de neve, em termos objectivos, estejam localizadas em algum lugar no tempo e no espaço, elas não precisam de explicação; o seu significado pode ser sentido por qualquer pessoa. Isso é algo comum a todas as grandes obras de arte, e embora falte muitas vezes na fotografia, é de grande importância.

    Desde que foi inventada que a fotografia tem demonstrado um grande potencial para mostrar o extraordinário e o sobrenatural. A força da fotografia não está na captação do universal, mas sim no específico do seu tema.

    Um lugar onde a fotografia pode mostrar o seu poder é na publicidade, e como tal tem desempenhado um papel significativo no desenvolvimento da sociedade de consumo.

    Inevitavelmente, numa tal sociedade, muitos fotógrafos procuraram igualmente ter êxito neste ramo.

    O excesso de fotografia comercial, e o impacto que tal teve na sociedade levou a um aumento exponencial de ansiedade, que é uma mistura de incerteza, impaciência e isolamento, e cuja verdadeira raiz reside na discrepância entre as expectativas pessoais e a realidade. A sociedade de consumo explora esta lacuna e lucra com a ansiedade e a impaciência que ela provoca; uma lacuna que é comercializada e mascarada pela palavra “sonho".

    Não admira pois que se alguém alguém quiser ser fotógrafo, o caminho mais fácil é servir a sociedade de consumo.
    Quando vi as obras de Season Lao pela primeira vez, senti a resistência oeste jovem a essa tendência.
    Apesar de ele utilizar ferramentas modernas, como a câmara, os seus olhos, como os dos poetas de haiku e dos artistas Nanga, visam a

    universalidade, aquilo que resiste ao desgaste do tempo. Além disso, o artista lida com o passado sem espírito de antiquário; das suas paisagens nevadas, ele extrai a essência que liga o presente e o passado.

    O mundo criado por Season Lao é um mundo desconhecido, mas nostálgico; embora nele não se aviste nada nem ninguém, não causa ansiedade, antes pelo contrário, gratifica. Este Silêncio não é o mesmo que o silêncio da televisão. Está pleno de emoção; Se prestarem atenção, poderão ouvir o som do vento, do respirar das criaturas vivas, todos os sons a “transitar” do passado para o futuro.

    Tudo e todos morrem. No entanto, durante a vida, a respiração de qualquer ser humano deixa uma marca indelével no mundo com o qual interage.

    Essa marca, essa energia, que não se restringe apenas aos seres humanos, transmite não a forma visível, mas sim a sua essência.

    O que caracteriza as obras de Season Lao é exactamente essa energia. Através dela, as pessoas estão ligadas à vida, e ninguém fica verdadeiramente isolado.

    Se nunca estamos sozinhos, se evitamos o Silêncio e o mantemos à distância, não sentiremos essa energia, e a ansiedade que esse desapego provoca só poderá aumentar.

    A Arte do Silêncio; abraçar o Silêncio não tornará a solidão mais violenta nem a fará insuportável. Pelo contrário, liga-nos a coisas maiores, que nos transcendem, e garantem que não nos tornaremos vítimas da ansiedade da realidade. Season Lao é um dos poucos fotógrafos que ousa incorporar tal visão.

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